「落語」32号(弘文出版) 1994年 発行 - センシティブな現代落語
センシティブな落語、というのが、春風亭正朝の高座に対するイメージである。
正朝は、古典落語を現代的感性で見事に生き返らせてしまう。いわば古いものに、新しい命を与えるのが、正朝の目指している落語なのではないだろうか。
例えば噺の枕である。古今亭右朝との二人会である「二つの朝の会」で「厩火事」を演じたとき、枕で夫と妻に対するアンケートの話題を振って本題に入った。妻が夫に(あるいは夫が妻に)言ってはいけないことベストスリーとか、夫婦喧嘩の原因ベストスリーについてしゃべり、これが実に面白かった。ちなみに夫婦喧嘩の原因は、夫の答えも、妻の答えも、一位は「些細な事」なのだそうで、夫婦の機微を描くことが眼目の一つである「厩火事」という噺の導入として、極めて適切な話題だった。
なんでも随分古いアンケートなのだそうだが、そんなことはどうでもいいし、実際にそんなアンケートがあったかどうかもどうでもいい。問題は、それがもっともらしく見えるかどうか(つまり幾分かの真実を含んでいるかどうか)であり、それを噺の導入として拾い出してきた正朝のセンスの輝きである。
そうした現代的感性は、噺の本題にも生きている。
正朝は、古典落語の中に、ちょっと普通では気づかないような形で、非常にうまく現代語や現代的人物を挿入する。例えば「ん廻し」で、「あたしにやらして、やらして」としゃしゃり出てくる、ちょっとお調子者の人物造形は、現代的リアリティを持っている。現代語・人物を挿入することで、噺全体が私たち現代人の感覚に合うような形に見事に生まれ変わってくるのだ。そのことによって噺が壊れてしまうような危険は決して犯さない。
古典に現代的感性を吹き込む、と書いたが、むしろ自身の現代的感性に古典を引きつけているのかも知れない。たぶん中心にあるのは正朝自身の感性なのだろう。
だから、正朝は良い意味でエピキュリアンなのだと思う。遊ぶことに貪欲である。先の右朝は「正朝さんは、いつも遊んでいるように見える。あれだけの高座を演じるのだから、勉強もしているはずだが、いつしているのかわからない。良い意味で芸人的だ」という。それは芸人的であると共に、都会人的でもあるだろう。そうした遊びに対するスマートな貪欲さが、正朝落語の楽しさを裏から支えているのではないだろうか。
落語(1994・32号)より
「落語」32号(弘文出版) 1994年 発行 - センシティブな現代落語

