第一章: 誕生

 昭和28年1月12日。山口県防府市。藤原正則・喜美子夫妻の間に長男が生まれた。正則23歳、喜美子20歳の若い夫婦であった。赤ん坊は義和と名づけられた。後の春風亭正朝、つまり私である。

 正則は、昭和4年岡山に生まれた。父の名は市雄。幼い時に両親が離婚したため、父方の祖母に育てられた。やがて市雄は、世の中が不気味に太平洋戦争へと 進んでゆく中、幼い正則を置き去りにして単身中国に渡った。当時の多くの男達がそうであったように、大陸で一旗上げようという野望を抱いていた。そして、 それは成功した。大連の大きなデパートに職を得て、食料品売り場の責任者になった。ようやく市雄は、正則を大連に呼び寄せた。正則は多感な中学・高校時代 を、大連で過ごすことになった。昭和20年8月。高校二年生16歳の時に、終戦を迎える。

 この年、正則は貴重な体験をしている。それは大連で「志ん生・圓生二人会」を見たことである。五代目古今亭志ん生と六代目三遊亭圓生が、終戦間際 に満州・大連を慰問した話は、有名である。二人のそれぞれの自叙伝や随筆などにも、度々登場する。結城昌治の小説「志ん生一代」にも詳しく書かれている。 正則は近所の友人達と一緒に、タイプライターの専門学校の教室を使って行なわれたその「寄席」を観に出かけた。
演芸が始まった時、正則たち高校生の悪童数人が私語をしていた。高座に登場した志ん生が、開口一番いきなり「うるせえっ!静かにしろ」とどなった。高校生 たちは、びっくりして思わず居ずまいを正し、高座に注目した。当然ながら、自分達が叱られたと思ったのだ。しかし、実はそうではなかった。それはすでにネ タだったのだ。志ん生は、そのままスーッと落語に入っていった。正則はどんな内容の噺だったか、全く覚えていない。しかし、それが見事な志ん生の「芸」 だったことだけは、鮮烈に覚えていた。

 後年、正朝はこの話を聞かされるのだが、自分の父親が、本で読んだ志ん生・圓生の満州慰問の、言わば「歴史の生き証人」だということに大いに驚き、また少し誇らしげな気持ちにもなった。
余談だが、正則がこの話を初めて義和にした時
「志ん生は面白かった。それはよく覚えてる。もう一人の噺家が、誰だったっけな?今輔だったかな」と言った。
「親父、それは圓生師匠だよ」と義和が言うと
「いや、圓生じゃなかったな」と、なおも強情を張った。最終的には、歴史的な事実である(というのも大袈裟だが)ので、認めざるを得なかったのだが、最後まで正則は
  「そうか・・・、圓生だったかな?」と、納得のいかない顔をしていた。
  昭和の名人と言われた圓生だが、若い頃の評価は必ずしも芳しいものではなかった。むしろ、その逆である。どんな資料を調べても、またその当時を知るお年寄 りの落語ファンに話を聞いても、一様に「戦前の圓生はキザで、口調は悪いし、ヘタだった」という。圓生の芸が花開くのは終戦後、命からがら日本に帰って来 てからである。高校生だった正則が「志ん生は面白かったが、あと一人は名前もよく覚えていない」というのも、歴史的な証言と一致していて面白い。

  終戦から一年半後の昭和22年2月、正則は父親の市雄と共に、ようやく内地に引き上げてきた。長崎県佐世保に着いたあと、市雄のツテを頼って熊本に落ち着いた。しばらく経って、正則は鐘紡(当時の鐘ヶ淵紡績)甲佐工場に就職することになる。

  喜美子は昭和7年、朝鮮の富寧(ふうねい)に生まれた。父親は警察官だった。日本統治時代の朝鮮半島で、日本人の官憲として赴任していたのである。家族 は、英美子という姉と、寿美子、光夫、芙美子の弟妹がいた。13歳で終戦を迎え、幼い弟妹達の手を引きながら、母の実家である熊本に命からがら引き上げて きた。父親はロシア軍に捕まり、シベリアに抑留されていた。そしてそのまま、シベリアの収容所で死亡する。
熊本に引き上げてきた喜美子は、生糸(絹糸)を生産する鐘紡甲佐工場に女工として働きに出された。それはまさに「女工哀史」というべき、悲惨な労働状況だった。

  正則と喜美子は、鐘紡甲佐工場で知り合い、結婚した。昭和26年4月22日。正則22歳、喜美子19歳だった。やがて甲佐工場は閉鎖になり、山口県防府市の防府工場に転勤になった。
  ここで義和が生まれた。結婚二年目、二人にとって待望の長男の誕生だ。

義和誕生

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