第2章:鐘紡社宅 

1950年代前半、朝鮮戦争の影響で糸ヘン景気と呼ばれる好景気の時期があった。鐘紡もご他聞に漏れず、好況だった。正則・喜美子夫妻は、熊本の甲佐工場が閉鎖されて、山口県防府工場に転勤になった。当時の防府市は「鐘紡の城下町」と言ってよかった。工場と社宅は、瀬戸内海の三田尻港に面した広大な敷地の中にあった。

塀で区切られた鐘紡の中は、ある種「治外法権」の感があった。敷地の中には、「工場」と「住宅」のほかに「福利厚生施設ゾーン」とでもいうべき一角があった。そこには、住人(つまり従業員とその家族)のためだけのスーパーマーケットがあった。当時、町にはスーパーやコンビニなどはなく、個人の商店しかなかった時代である。すべての商品が常時一割引きのスーパーは、魅力的だった。ほかには、床屋があり、病院があり、食堂があり、共同浴場があった。それらはすべて社宅に住む「鐘紡の人」だけが利用できる施設である。料金は、いずれも非常に安く設定してあった。共同浴場にいたっては、形式は町の銭湯と同じだが、無料だった。番台におじさんかおばさんが座ってはいたが、料金を払う必要はない。タダで入浴できたのである。

余談だが、そんな環境で育ったせいで、義和は小学校に上がって初めて町の子供達と接した時、銭湯でお金を払うという意味が理解できなかった。お風呂はタダで入るものだと思い込んでいたのである。

鐘紡防府工場は、クラブ活動が盛んだった。敷地の中に立派な野球場があり、野球部が練習をしていた。全国的に有名なのは陸上部だった。400メートルトラックがあり、毎日練習していた。中でも貞永信義は、マラソン日本代表として活躍した。1958(昭和33)年に東京で開催されたアジア大会では聖火の最終ランナーとなり、国立競技場の聖火台に点火する大役をこなした。その後、松原一夫、鎌田俊明、伊藤国光、早田俊幸など多くの名選手を輩出した。最近では、2002年シカゴマラソンで日本最高記録を樹立した高岡寿成がいる。全国レベルの駅伝大会でも「カネボウ」は、常に上位争いをする強豪である。

鐘紡の敷地の中は、例えは悪いが、米軍基地のようだったかもしれない。防府の町の人たちは、この「鐘紡の社宅」を羨望とある種のやっかみの目で見ていた。一般常識で考える「社宅」という範疇は超えていた。小さな町を形成していたと言っていいだろう。

 

義和が生まれ育った西社宅は、木造の長屋だった。今にして考えれば、プライバシーなど無いに等しいお粗末な住環境だったが、勝手口の側には小さいながらも庭があり、そこそこ快適な住まいだった。ただし、トイレは共同である。落語に出てくる「長屋の共同便所」よりはマシだろうが、似たようなものだ。今の若い人には理解できない感覚だろうと思う。

工場に勤務する労働者であるから、生活は決して楽ではなかった。ギリギリだった。しかし、ほとんどの日本人がみんな貧乏な時代だったので、それが苦にならない、幸せな毎日だった。

義和には一つの思い出がある。三歳か四歳頃だった。当時最先端の電化製品である「ジューサーミキサー」を購入した。時代背景としては、世の中に「電化製品」というものが、ボチボチと出始めたころである。一般の家庭には、冷蔵庫はもちろんのこと、炊飯器もジャーもポットも、テレビも、なんにも無い時代だ。それは、貧乏な工員一家の台所には、不釣合いなほど豪華な品物と言ってよかった。若い夫婦にとって、無理をすればなんとか手の届く小さなぜいたく品だったのだ。義和はそのミキサーで母親が作ってくれる生ジュースが、なによりも大好きだった。喜美子もミキサーでジュースを作るという行為そのものがぜいたくで、幸せだった。ところが、ある日知り合いが結婚するという知らせが来た。哀しいかな若い夫婦には、ご祝儀を包む余裕がなかった。かといって知らん顔はできない。仕方なく「品物でお祝いしよう」ということになった。さて、なにを贈ろうかと考えた末、まだ購入したばかりでそんなには使っていないこのミキサーを、綺麗に包んで新品同様にして、プレゼントすることにした。苦肉の策である。せっかく無理して買ったジューサーミキサーだが、泣く泣く手離すことにしたのだ。それを知った義和は、猛烈に反対した、というのは正確ではない。幼い子供のことだから、泣いてダダをこねたというのが正しい。「なんで、ミキサーを人にあげるの」。義和はこの時、生まれて初めて幼心に「貧乏はイヤだな」と実感した。もちろんさほど深刻なものではない。

全体としては、健やかに幸せな幼少期を過ごしたと言っていいだろう。

 

親子3人西社宅

西社宅4歳

家族の写真1

 

  

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