「日本語の乱れ」という話をする時、たいがい最初に出てくるのがこの問題である。あまりにも「ベタなネタ」なので、今まであえて避けてきたが、やっぱり触れないわけにはいかない気がしてきた。遅ればせながら私の考えを書くことにする。
「日本語の乱れ」って、なんだろう。「言葉は時代と共に変化する」のは事実である。学者の言う「半数以上の人が使うようになれば、正しい日本語」というお説は、説得力がある。「乱れ」ではなく「変化」である、という指摘もごもっともだ。
「ら抜き言葉」は今や、もしかしたら半数以上の日本人が使っているかもしれない。初期の頃(って、いつごろだよ?)は若い人だけが使っていたが、最近ではかなりお歳を召した方も使っている。腹の立つことに、テレビやラジオのアナウンサーまでもが、恥知らずにも使っているのだ。だから、もはや「正しい日本語」かもしれない。
でも、イヤなものはイヤなのだ。私は「ら抜き言葉」「さ付き言葉」を、この世の中から駆逐したい。だから、あえて書く。
「出れる」「見れる」「来れる」「寝れる」「食べれる」などは、間違いである。それぞれ「出られる」「見られる」「来られる」「寝られる」「食べられる」が正しい日本語だ。絶対にそうなのだ。「ら」が付いた方が正しいのだ。「ら」がないのは間違いなのだ。誰がなんと言っても、そうなのだ。
意味としては【可能】を示している。上記の「れる・られる」はいずれも、偉そうに文法的にいうと「可能を示す助動詞」である。英語にすると can だ。どちらも「~することができる」という意味になる。
ところがやっかいなことに「られる」には【可能】の他に、【受身】と【尊敬】の意味もある。私は、ここに問題の根源が存在すると推測する。
具体的に考えよう。「見られる」というと、三つの意味がある。
(遠くを)見ることができる=【可能】
(他人から)見られる=【受身】
(高貴な人が)ご覧になる=【尊敬】 という三つの意味だ。
くどいようだが、もう一つ例をあげる。「食べられる」の意味は、
(好き嫌いなく)食べることができる=【可能】
(狼に)食われる=【受身】
(高貴な人が)召し上がる=【尊敬】 という具合だ。
三つの内、どの意味かは前後の文脈や話の内容から推し量るしかない。ところが、「見れる」「食べれる」という言い方(つまり「ら抜き言葉」)には、【受身】【尊敬】の意味はない。【可能】だけに限定される。要するに「間違えようがない」わけだ。言い方を変えれば【可能】だけに限定するために、【受身】との区別化をはかったということができる。ここに「ら抜き言葉」がまん延していった大きな理由があると、私は考える。
井上ひさし氏の文章には、「ら抜き言葉」は地方の方言として存在していたものが全国に広まったという説もあると紹介してあった。確かにそういう側面もあるだろう。井上氏らしい鋭い指摘である。
がしかし、一番の理由はそこだろうと、私は推測する。
さて、落語である。江戸時代、あるいは明治・大正頃が舞台になっている古典落語の中で、熊さんや八つぁんが
「俺は、こんなモノは食べれない」とか
「路地を抜ければ、表通りへ出れる」とか
「なあに、すぐに戻って来れるさ」なんて言うわけがないのだ。
それぞれ、正しい日本語では
「俺は、こんなモノは食べられねえ」あるいは「食べらんねえ」
「路地を抜ければ、表通りへ出られる」
「なあに、すぐに戻って来られるさ」となるのである。
いずれも「ら」がついた言い回しの方が美しいと感じるのは私だけだろうか。
「さ付き言葉」についても書くつもりだったが、スペースが無くなった。これは次回、改めて。